第六話 正史だった古事記

魏志倭人伝の資料

 邪馬台国を九州に想定した人は、魏志倭人伝の里程や方向を先づ間違っていると指摘している。魏志倭人伝を書いた陳寿にとんだ汚名をかぶせている。
 魏志倭人伝は中国の正史だから、間違いだらけと云えるだろうか。中国に取って、好ましくない事柄は、ゆがめて書いてある。しかし利害のない記録は正確であった。
 魏志倭人伝の謎は、魏志倭人伝に語らせることだ。謎解きは至って簡単である。
 難升米は魏の都に半年も居ったのである。この人は率善中郎将に任ぜられた。日本攻略のための魏国植民地軍司令官ではないか。
 半年も魏の国に、とどまって倭国の詳細を報告したのである。従って里程や方向は、古代に如何にして測量したのか、疑問を感じる位正確であった。
 しかも難升米と牛利の二人がかりで、道路を構築した。道路とは日本に派遣する軍隊を中国の港まで運ぶ軍用道路ではないか。この作業に半年を要したのである。道路測量は、この二人に取っては、お手のものだ。

「卑弥呼、以って死し、大いに塚を作る。径、百余歩、殉葬するもの、奴婢百余人。更に男王を立つるも、国中、服せず、こもごも相い誅し、時にあたりて千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与、年十三なるを立て王となし、国中、ついに定る。
政等、檄をもって壱与に告諭す。壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台にいたり、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢ぐ。」

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 11、12ページ
発行日 昭和56年6月10日
スポンサーサイト

第六話 正史だった古事記

紀元250年の日本 

第十代崇神天皇は258年に亡くなられた。卑弥呼が死んだのが、248年である。このあと千余人が死ぬ様な戦争があった。
 崇神天皇が丹波のクガミミの御笠を殺したと古事記に書かれた。魏志倭人伝にでて来る率善中郎将難升米とは、クガミミの御笠だったのである。
 この時魏の使者政等と20人が逃げ帰ったが、難升米の名は消えていた。日本と中国の文献が一致していたのである。
 日本書紀から、魏の占領地域がなくなった。同時に国交は425年まで177年も断絶した。
 真の独立国になったから、崇神天皇は、「初国知らす所の御真木の天皇」と呼ばれることになった。
 神武天皇は大和を先に占領していた、ニギハヤヒの命を征伐した。初めて全国統一をなしとげたのである。同時に始めて天皇の称号を採用した。従って初代天皇である。
 初代天皇が、二人もあっては、おかしいと神武天皇を無視したのは間違いだった。

「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡にいたらしめ、天子にいたりて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わしてもって送りて京都にいたらしむ。
 その年の十二月、詔書して倭の女王に報じていわく〔親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わして汝が大夫難升米、次使都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて、以ていたらしむ。汝が在る所、はるかに遠きも、すなはち使を遣わして貢献す。こり汝の忠孝、我、親魏倭王となし、金印紫綬を仮えん。荘封して、帯方太守に付して仮綬せしむ。それ種人を綵撫し、勉めて孝順をなせ。汝が来使難升米・牛利遠きを渉り、道路を勤労せり。今難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮え、引見労賜して還らしめん〕」




田村誠一著 第六話 正史だった古事記 9、10ページ
発行日 昭和56年6月10日

私から一言----「このあと千余人が死ぬ様な戦争があった」崇神天皇の側の兵隊が死んだのか、魏の国側の兵士が死んだのか、どちらだと思われますか。
 古事記には、崇神天皇が「丹波のクガミミの御笠を殺した」とあります。魏志倭人伝にでて来る率善中郎将難升米は、魏の国の最高責任者です。田村氏は、だから、クガミミの御笠と難升米は同じ人物だと述べておられます。
 「この時魏の使者政等と20人が逃げ帰った」と記録されていますが、トップの率善中郎将難升米の名前がないということは、死んだのでしょう。そのような不名誉なことは記録しなかったのでしょう。

第六話 正史だった古事記

紀元240年の日本

 240年は、中国の魏の時代である。日本はカツラギ王朝時代で、崇神天皇の御世だった。 この年には朝鮮の帯方郡は、魏の占領下にあった。ここには太守すなはち、朝鮮総督が居った。
 日本には京都府綾部市の物部町に、魏志倭人伝にでてくる伊都国の都があった。240年は正始元年である。
 「正始元年、太守弓遵、建中校尉遵綬を遣わして、詔書・印綬を奉じて倭国にいたらしめ、倭王に拝仮し、あわせて詔をもたらし、云々」
と倭人伝に書かれている。太守すなはち、朝鮮総督までが日本にやって来た。建中校尉とは、魏の近衛の将校である。何の目的で、これだけの、大物がやって来たか。
 この人達は奴国、狗奴国、邪馬台国等を視察して回ったのである。この時には、これらの国の人達は、よもやこの慰問団は、戦争準備のため偵察目的でやって来たとは、感じなかった。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 8ページ
発行日 昭和56年6月10日


私から一言----紀元240年の日本が簡単に書いてあります。全部、お分かりですか。邪馬台国は、九州にあったと思っておられる方には、なんのことか判らないと思います。
特に、「京都府綾部市の物部町に、魏志倭人伝にでてくる伊都国の都があった」

奴国、狗奴国、邪馬台国等を視察して回ったのである。この時には、これらの国の人達は、よもやこの慰問団は、戦争準備のため偵察目的でやって来たとは、感じなかった。
 この様なことは、どこにも書いてありません。しかし、その後、卑弥呼が殺されるまでの歴史の流れを知りますと、魏の近衛の将校が物見遊山にやって来たのではないと考えませんと、歴史を理解できないと思います。

第六話 正史だった古事記

古事記神話の誕生(4)

大国主命とタケミカヅチの神との、国譲りの交渉は、大和村(ヤマト、現在淀江町に合併)の小波浜で行われた。
 大和とは「天子の講和」のことである。この時に「葦原の中ツ国」を譲れと交渉した。
出雲を譲れでも、日本を譲れでもない。葦の繁った中州の地域を譲れと申出たのである。
 大国主命は、大国村(現在西伯町に合併) のボスに過ぎなかったのである。天照大神が稲作を日本に計画的に大仕掛に導入したので米の出来ない、出雲に魅力はなかった。
 「葦原の中ツ国」とは、デルタ地帯で、先住民が居らない無人地帯のことである。
 「天の岩戸」の舞台は蒜山高原で、この事件の前後関係は別冊に述べておいた。
 「黄泉の国」は溝口町の「御墓原」のことだったし、「常世の国」とは外国のことで、中国や新羅を指していた。
 古事記は、日本の正史として書かれたのだ。


田村誠一氏の著書 
第7話 崇神天皇の妹だった卑弥呼
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/04/1-576f.html
 
 上記の所から、掲載しています。併せて、読んで頂ければと思います。このブログは、見ることは出来ますが、壊れていますので、訂正箇所があっても、修理出来ませので、よろしくお願いします。
 コピーのページは、下へスクロールしますと、本文を掲載しています。

第六話 正史だった古事記

古事記神話の誕生(3)

 天孫すなはち天照大神の孫のニニギの命が高天原から高千穂に降りた話も神話である。
筑紫の日向の高千穂がさすがの本居宣長にも理解出来なかった。
 日向の国の高千穂に降りたので、高天原はこれよりも高い所と考えられ、空想の天国を考える外なかった。
 高天原は大山・蒜山国立公園の蒜山高原(正確には中蒜山の海抜679米の台地)にあった。
 高千穂は倉吉平野の大栄町の現在も、高千穂の地名があった。ここからの大山の山容は文字通り高千穂である。古事記に書かれた通り、韓国に面して居り、海岸は北条砂丘であった。古事記に「カササの浜」と書かれたのは砂丘が笠の砂で、笠砂と呼ばれたのだ。
 筑紫の日向とは「ツクシのヒムカ」で、蒜山を降りたにすぎない。
 原生林に覆われた時代には、人の住める所は木の生えてない、「木尽し」の場所が欲しい。
「木尽し」が「ツクシ」と呼ばれた。
プロフィール

keika

Author:keika
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
♪ 来訪者数 ♪
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR