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六話 正史だった古事記

「東南に陸行すること五百里、伊都国に至る。千余戸あり。世よ王あるも、皆女王国を党属し、郡使の往来に常に駐まる
所なり。」


 これまでは「又云々」と書かれ、これは継続的な地理の表現だが、伊都国以降には、「また」と書かれない以上、末盧国基準である。
 末盧国すなはち、松江国から東南には、出雲街道が伸びている。五百里行った所が、加古川で、この川を遡れば、丹波国である。
 ここは107年には倭面土国と云われ、これも恐らく伊都国と同一名の筈だった。
 魏志倭人伝の国名は難升米が書き残したものを、敗戦の結果野卑な漢字に書き改めたが、自国の伊都国だけは例外だった。
 倭人伝に出てくる、伊都国は、丹波の大江山の、大江町と物部待ちが中心だった。郡使が常駐した所が、勅使の地名で残っている。
 「王、使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国にいたらしめ、また郡の倭国に使するや、
皆津に臨みて捜露し、・・・・・」と書かれている。 「津」と書かれたのは、現存の天津がふさわしい。中国でも都の外港は、天津である。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 47ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


大橋から一言---京都府の地図を出してください。
 大江町あたりを眺めてください。
〔河守〕〔天津〕そして、竹田川に入りますと、〔東勅使〕〔勅使〕という地名があります。
〔河守〕は、河守と云う職種の人が、ここで、登って来た舟の監視をしていたのではないかと考えています。
〔天津〕は、港ではなかったかと推理。
〔勅使〕では、外国からやって来た人を出迎える朝廷の役人がいたのではないかと思います。その人たちが泊まれる施設もあったのではないかと思います。

〔市島〕と云う地名があります。ここに、三ッ塚廃寺跡
http://edu.city.tamba.hyogo.jp/bunka/bunnkazaizuroku/mitsuzukahaiji.htm
があります。国指定 三ツ塚廃寺跡パンフレット(PDF)

三ツ塚廃寺跡は、竹田川右岸の丘陵上に位置する白鳳時代に創建された寺院跡です。ですから、田村氏がかかれている時代とは、ずれますが、天皇家と中国系の人の攻防が繰り返された地域だと考えています。
黒井という地名があり、竹田川は、黒田川に分れます。この先に、「水分れ」があります。
「石生 イソウ」という所です。
此処まで、船で着ますと、少し、船をかついで移動しますと、加古川に着きます。瀬戸内海までの道だったと考えています。

古事記の孝霊天皇のところに、次のような文章があります。
 大吉備津日子命と若吉備津日子命とは、二柱相副ひて、針間の氷河の前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口として吉備国を言向け和したまひき。

 ここに書かれてある氷河の上流が、「氷上」の水分れではないかと考えています。
 大吉備津日子命と若吉備津日子命の軍隊は、吉備を攻めるに当って、こちらを廻ったのではないかと。
 卑弥呼の時代には、中国人が、支配していた福知山は、孝霊天皇の頃には、天皇家が支配していたことになります。
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