天皇西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日

神武天皇が実在していた証拠  P46~48
日本書紀の崇神天皇のところに、大物主の神話が挿入され、大物主の妻であつた倭迹迹日百襲姫命が富登に箸が突き刺さって死んだことが記されています。
古事記が書かれたのは710年です。この時代は相当文化が進んでいた時代です。いくら神話にするにしても、又、富登から子供が生れることに興味があったと思わせる効果を狙ったとしか思えません。
書いた本人は、さすがに気が引けたのか、「そのほとといふ事を嫌って、後に名を改めました」の部分を小さな字で注釈を入れました。
古事記のこの部分で、神武天皇の義父は大物主であるとが判りました。その上に、
伊須気余理比売がどうして「神の子」と呼ばれるようになったか、古事記の作者は記しました。ところが、日本書紀を書いた人にとっては、大物主も神武天皇も実在してもらうと困ったようです。記紀に現われる神は、すべて名前がありますが、大物主には名前がありません。しかし、実際は大物でしたから、このようにふざけた名前になりました。
 それだけでは満足できず、日本書紀には、神武天皇の巻では明確に五十鈴媛を事代主神の娘と書いていますが、神代上の巻では、大物主神摂と事代主神説を併記しています。読む者が迷うように仕向けています。
 日本書紀のように、いくつもの説があるのですよという書き方は、どの時代の人にも良い印象を与えたようで、現在でも、インターネット上で次のような文章を見つけました。
 五十鈴媛の父は、事代主神説と大物主神説がありますが、事代主神説が妥当だと書いておられます。
「基本的にはこれが信頼おける説だと思います。その後の事代主神の葛城政権への関わりからいっても最も妥当です。大阪の溝咋神社の伝承にもあるようですし、溝咋神社の境内に事代主神が祭られていることなどもこれを示唆しています。日本書紀の神武天皇の巻および旧事本紀にあります」
 多くの方が、このような考え方をされています。明治時代に多くの神宮が作られたことは前に記しました。建てられて50年もすると、日本人は騙されてしまうのです。
 大阪の溝咋神社は伝承だけではなく、実際に神社が存在します。まさか、全く関係ないところに、三嶋という名前が同じだからと大阪に溝咋神社を作るとは想像しません。それ故に、だれでも、伊須気余理比売のおかあさん、(勢夜陀多良比売)は、大阪の三嶋の溝咋人の近くに住んでいたと考えます。当然、その娘である伊須気余理比売も住んでいたと考えます。
 この付近に住んでいない人は、それで差し支えないと思われますが、私は近くに住んでいますから、二つの場所は遠く離れていると云うことを知っています。
 もう少し、何故、関係ないところに作られたかという根拠を述べてみます。
 神武天皇は倭の高佐士野へ行って、歩いていた七人の乙女の誰かとともにしたいと思い、先頭を歩いていた伊須気余理比売に歌を送ります。神武天皇は伊須気余理比売の家に行き、一晩を過ごすことになります。

天皇西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日

神武天皇が実在していた証拠  P44~46

 この文章の意味をもう一つ噛み砕いて書いて見ます。
「神武天皇が日向に居られた時に、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比売という人と結婚し産んだ子供が多芸志美美命、次に岐須美美命の二人です」 ということは、天皇は日向に居られるときに、子供が二人産まれたということです。
しかし、天皇は、更に、大后 として美人と結婚したいといわれました時に、大久米命が言うには、「ここに媛女います。この人を神の御子と云います。神の御子という理由は、この媛女は三島溝咋の娘で、名は勢夜陀多良比売といい、その姿が麗しいでした。ところが、美和の大物主神が見初めまして、その美人が大便するときに、赤い色を塗った矢に化けて、その水洗式の便所の溝より流れ降って行って、その美人の陰部を矢で突きました。すると、その美人は驚いて、立って走って行きました。
その矢を以て来て、床にの辺に置けば、忽ちに麗しき若々しい男に変身しました。直ぐに、その美人と結婚して生んだ子、名は富登多多良伊須須岐比売命と謂う。そのほとといふ事を嫌って、後に名を改めました。この話より、神の子と云います」と申しました。

大物主神が赤い矢に化けた話は横に置くとしても、ここの文章の意味が判りません。

美人の陰部を突いた矢を、誰が床の辺に置いたのかといいますと、その美次男と大物主神しかいません。大物主は、矢に変身していたのですから、麗しき若々しい男は、大物主ということになります。矢を置いたのは、、ぞ人になります。
大物主と三島溝咋の娘である勢夜陀多良比売が生んだ子が、比売多多良伊須気余理比売です。

「その美人の大便まる時、丹塗矢に化りて、その大便まる溝より、流れ下りて、その美人の富登(ほと・陰部)を突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。すなわち、その矢を持ち来て、床の辺に置きしかば、忽ちに麗しいき壮夫成りぬ」の部分が浮き上がっています。この部分は、誰かが挿入したことになります。

天皇西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日

神武天皇が実在していた証拠  P42~44
 古事記は益々奇怪な文章を書いています。先ほど書きました「ここに七媛女、高佐士野に遊行べるに、伊須気余理比売その中にありき・・・・」の文章の前に次の文章が有ります。
「大久米命まをさく『ここに媛女あり、こを神の御子といふ所以は三島の溝咋が女、名は勢夜陀多良比売、かれ容姿麗美かりければ、美和の大物主命見感でて、その美人の大便まる時、丹塗矢に化りて、その大便まる溝より、流れ下りて、その美人の富登(ほと、陰部)を突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。すなわち、その美人に娶ひて生める子、名は富登多多良伊須須岐比売命、またの名は比売多多良伊須気余理比売といふ。こは富登といふ事を悪みて後に改へつる名なり。かれここを以て神の御子とはいふ』とまをしき」

この文章に出てくる人物を、私が知っている知識で解説します。
①三島の溝咋の娘は大阪府茨木市五十鈴町に住んでいたことになります。どうしてかといいますと、ここに溝咋神社があります。
この神社の祭神は、
正殿  媛踏鞴五十鈴媛命及び溝咋玉櫛媛命であり、
相殿  三島溝咋耳命、天日方奇日方命、素戔鳴尊、天児屋根命
摂社  事代主神社、天照皇大神社、保食神社、手力雄神社、木花開耶姫神社
 延喜式内社であることが重要です。媛踏鞴五十鈴媛命は日本書紀に書かれている名前です。元々、伊須気余理比売、または富登多多良伊須須岐比売命、またの名は比売多多良伊須気余理比売と伝承されていたのを日本書紀の作者は、媛踏鞴五十鈴媛命と書き換えた可能性があります。

②美和の大物主命は、奈良桜井市にある大神神社の祭神になっていますから、奈良に住んでいたと考えます。(美和と書いてあるだけなのに、どうして、奈良の大神神社の大物主命と確定しているのでしょう)。

③神の御子とは、ユダヤ人の子という意味です。中国地方に神付く地名がいっぱいありますが、すべて、そこにはユダヤ人が住んでいた可能性があります。ユダヤ人の血統であることを古事記のの作者は言いたかったのだと思います。

④この文章の前に、「かれ、日向に坐しし時、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比売を娶して生みし子、多芸志美美命、二柱坐しき。然れども更に大后とせむ美人を求ぎたまひし時」が有ります。

天皇西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日

神武天皇が実在していた証拠  P40~42

 佐韋河の佐韋の部分だけを取り出して、佐韋は山百合草のことだから、佐韋河は山百合草がたくさん生えている河ですと説明しています。佐韋は山百合草のことだということは、古事記に書かれているだけで、他の文献には見つかりません。
奈良の大神神社(おおみわ)の摂社に佐井神社があります。現在では、佐井河は佐井神社の北を流れる川ということになっています。それだけではありません。大神神社から狭井神社に行くまでの参道に、たくさんの百合が咲いています。あまりの多さに、不自然さを感じそればかりか、その両側に日本書紀のゆうめいな製薬会社の献灯が賑々しく立てられています。山百合が薬草であるという故事によるものでしょうか・
もう少し、狭井河に迫ってみます。姫踏鞴五十鈴姫命を祭神にする神社が、伯耆に五座あると書きました。その内の久古神社に行ってきました。古事記に書かれている「ここに伊須気余理比売の家は狭井河の上にあり」を確かめるためです。
伊須気余理比売の家は、狭井河の川上にあるのではなく、また、狭井河の近くにあるのでもありません。岸本町の久古神社を訪れますと、久古神社は断崖の上に建てられていて、川幅は数メートルもないのに両岸は二〇メートル以上の深い断崖です。古事記の狭井河の表現にピッタリのしかも河の上に建てられていました。
稗田阿礼は、古事記に出てくる神社すべてを訪れ、祭られている神は誰であるかを調べて、すべて暗記したのだと思います。(文字を使って表すと、燃やされてしまうからです)
 狭井河という名前があったのではありません。その土地や河に名前がなかったから、その状況を書いたのです。そんなこととは知らない日本書紀の編集者たちは、一生懸命「狭井」とはなんぞやと考えましたが、判らないし久古神社のことは書いてはいけないので、書きませんでした。いくら考えても分かるはずがありません。古事記を書いたのは、伊須気余理比売が狭井河の上に住んでいた時より七〇〇年も後のことです。
伊須気余理比売が祭られている久古神社を訪れた稗田阿礼は、氷河のクレバスのような河が印象的だったのでしょう。狭井河と表現しただけのことです。本当は、久古神社の近くに住んでいただけでしょう。
奈良の狭井神社の河の幅二メートルぐらいあり狭い河ではありません。実際に行って確かめてください。

天皇西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日

神武天皇が実在していた証拠  P39~40

 久古神社   日野郡八郷村久古  祭神  姫踏鞴五十鈴姫命外
 森脇神社   日野郡二部村畑池  祭神  姫踏鞴五十鈴姫命外
 福栄神社   日野郡福栄村神福  祭神  姫踏鞴五十鈴姫命外
 大石見神社  日野郡石見村上石見 祭神  姫踏鞴五十鈴姫命外
 福成神社   日野郡石見村神戸  祭神  五十鈴姫命外

 各神社の祭神が、伊須気余理比売と書かれていたのを、姫踏鞴五十鈴姫命と書き直すさせたのではないかと私は疑っていますが、私の心が曲っているから、このような捻くれたことを考えるのでしょうか?
それとも、伊須気余理比売と姫踏鞴五十鈴姫命は別人なのでしょうか?

古事記の他の部分を転記します。

かれその嬢子「仕えまつらむ」とまをしき。ここに伊須気余理比売の家は狭井河の上にあり。天皇その伊須気余理比売のもとに幸行でまして、一宿御寝したまひき。

その河を佐韋河といふ由は、その河の辺に山百合草多くあり。かれその山百合草の名を取りて佐韋河と号づく。山百合草の本の名佐韋といひき

この短い文章の中に、佐井河と佐韋河があります。古事記を参考にしていた日本書紀の編集者は、古事記に書かれている「伊須気余理比売の家は佐井川の上にあり」の部分の佐井川の意味が解らなかったのだと思います。日本書紀には取り込まずに、姫踏鞴五十鈴姫命を正妃
にしたことのみ記しています。右に書きました古事記の部分の後半を太く小さく書きました。古事記でも注釈として小さな字で書かれています。この部分は、古事記が発見されたときに、誰かが書き加えたのではないでしょうか? 佐井河は河の名前ではありません。河の名前が無かったので、古事記の編集者が仮の名前として付けたものです。
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