西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日

続・ユダヤ人と牛    P23~24

 御所市域では、葛城氏と巨勢氏が勢力を持っていましたが、神武天皇が奈良に来たときに、すでにこの地に住んでいたものか、神武天皇と一緒にやってきたものかは、私には全く判りません。大和朝廷の時代には、天皇家の外戚・大臣として権勢を誇っていますから、條ウル古墳はこうした人たちの墓で有る可能性は十分です。
巨勢山古墳と條ウル古墳の間には、当時の天皇陵墓にも比肩する全長238メートルもの大きさを誇る前方後円墳の室宮山古墳が有ります。被葬者は、葛城襲津彦らが候補に挙がっています。
この辺り一帯の地名を眺めますと、葛、朝、條、室と一字の町名が目に付きます。これから何か掴めるかもしれません。また、古事記や日本書紀に出てくる本馬、掖上、柏原、国見山、秋津原がならんでいます。神武天皇は橿原神宮で即位したことになっていますが、現在の橿原神宮のところではなく、掖上の柏原のほうが、辻褄が合うように思われます。
ユダヤ人の気配が感じられるのは、ただ、小字名・ウル神だけであるのが、心細く思います。また、小字は古い者もありますが、江戸時代に付けられたものが多いので、ユダヤ人と関係ないかも知れません。小字名・ウル神は、いつからあったのか知りたいものです。

西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日

続・ユダヤ人と牛    P23

 墳丘は、開墾されてしまってほとんど残っていません。大正時代に報告書を書いた県の西崎辰之助によると、二〇〇メートル級の前方後円墳とありますから、当時は、辛うじてその原型が残っていたと思われます。ということは、天皇級の墓となります。古墳は、現在の考古学では、三世紀から七世紀以外はありえないように考えられていますが、私は二世紀に遡ることが出来るのであれば、神武東征の折りに、大なる力を天皇に援助したユダヤ系の人物の墓であるといってもよいと考えています。

條ウル神古墳の現地説明会の日に、同時に室地区にある巨勢山古墳群の「470、471、472、473号の古墳」が公開されました。山の上にある古墳で、素人の私にはよく理解できませんでしたが、巨勢山室古墳は471号墳を切りこんで作られ、772号墳も別の方向から切り込んで後世に作られているいることが判りました。
私が驚いたのは、772号墳という数字です。前の古墳を壊してまで、次々と古墳をつくらなければならないほど、御所市では、戦が行われたことになります。または、四〇〇年歩と背の間に、七〇〇個の古墳を作ったことになります。條ウル神古墳は、正しくないかも知れませんが、七〇〇基を越える古墳群の一番北側に位置しているようです。

西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日

続・ユダヤ人と牛    P22

兵庫県多可郡中町の妙見山の麓で、陶棺が発掘されています。この町では、祇園神社が岸上と茂利にあります。いつ頃の創祀か不明ですが、スサノオノミコトが、朝鮮のソシモリへ行ったことが日本書紀に載っていますが、漢字表記は、曽尸茂梨です。ただ、茂梨の部分が同じだけですし、中町の茂利は、「もり」とは読まないで「しばり」と読むので関係なさそうですが、頭の隅に残しておく必要はあるかと思います。
発掘されたすべての陶棺の近くに、スサノオノミコトがまつられているとしますと、スサノオノミコトとユダヤ人は関係があったことになりますが、判明するのはまだまだ先のことです。


二つ目は、地名の字名(あざな) ・ウル神です。変わった地名です。平成14年3月24日
條ウル神古墳の現地説明会がありましたので出掛けました。
 この古墳は大正時代に発見されていましたが、あまりにも大きいので、そのようなものがあるはずがないと疑問視されていました。その古墳は、橿原市の見瀬丸山古墳よりは小さいですが、明日香の石舞台に肩をならべる規模の古墳でした。市教委の発表では、「六世紀にこの地方に勢力を伸ばした豪族巨勢氏の盟主の墓ではないか」と奈良新聞(3月15日発行)に掲載されていました。

西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日

ユダヤ人と牛    P20

「日本書紀」の一書には、スサノオノミコトが高天原から出雲に行く前に、その子・イソタケル神を率いて、新羅国のソシモリ(蘇尸茂利)へ行ったという一節があります。
朝鮮の高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山が実際にあったそうです。その山は高霊の現加耶山。加耶山とは、仏教が伝わって以降の呼び名であって、古代には「牛の頭の山」と呼んでいたというのです。「牛の頭」は韓国語読みで、「ソシモリ」。この説になりますと、ソシモリとスサノオノミコトが結ばれる点ではすっきりしますが、「ゴズ」という読み方は消えてしまいます。
ユダヤ人とスサノオノミコトの両方が牛と関係があるようなことになってしまいました。


続・ユダヤ人と牛    P21
 頼りない連想ですが、ユダヤ人とウルが関係あるとしますと、二つのことが頭に浮かんできます。
全国に700ほど出土している陶棺です。最近、陶棺の出土したところを順番に訪れて、陶棺を実際の目で確かめています。
私の近くにある式内社・阿比太神社はスサノオノミコトを祀っています。この神社の一キロ以内に、二つの高地性集落があります。一つは五月山です。その麓に茶臼山古墳があり、美作の陶棺とは少し形態が異なりますが、陶棺が出土しています。
五月山は大阪府池田市にあり、昔、池田市豊島郡秦郷・秦下郷とよばれていましたから、ユダヤ系ではなく、朝鮮系の渡来人の土地であったことが判ります。もう一つは待兼やま高地性集落です。ここでも、陶棺が出土しています。
これらの陶棺は、岡山の者と異なりますが、円筒状の八つの脚で支えられている形状は異様で、岡山の陶棺と共通します。そこで、ユダヤ人と関係があったのではと思い、現在、調査進行中です。

西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日

ユダヤ人と牛    P18~19

 イスラエルをあとにした十部族の大半は、西の方へ移動したといわれていますから、印度にも到達し仏教に影響を与えたかも知れません。
問題は日本にも牛の信仰があるかどうかです。京都の八坂神社に牛頭天王が祀られています。どうして、ここに祀られているかについての説は幾つかありますが、その内の一つに次のものがあります。
「高麗の調使であった伊利之(いしり)の後裔・八坂氏が朝鮮の牛頭山に祀る牛頭天王を移したことに始まるともいわれています」
伊利之は『新撰氏姓禄』に八坂氏の祖の伊利佐の名が見えますから、渡来人であり、朝鮮にいるときにに祀っていたものかもしれません。ただ、牛頭天王は神さんではなく、『伊呂波字類抄』に「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神とも云う」とあり、仏教上のものとされています。

このように話が複雑なところへ進みましたが、八坂神社の祭神は、天照大神の兄弟であるスサノオノミコトとなっています。スサノオノミコトと牛頭天王は、同一のものであるとなっています。私の町には、式内社が二つありますが、両方ともスサノオノミコトを祀っていて、昔は牛頭天王社と呼ばれていました。
 「ソ」「ウ」「ウル」は牛でしたが、「グ」も牛だそうです。「グ」が「ゴ」に変化することはあるでしょうか?
とすれば、インド、朝鮮を経由して日本に牛頭天王がつたえられたのかも知れません。
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