神武天皇はいつ頃の人か     P81

崇神天皇は190年頃の人と判りましたので、簡単です。崇神天皇までに、九人の天皇がおられます。荒つぽく考えます。天皇の在籍が一人20年としますと、20×9で180年遡ります。30年としますと30×9で270年遡ります。ということで、神武天皇は紀元前80年頃から紀元後10年頃となります。最も、崇神天皇は100年ぐらい生きておられました。200年頃は40歳としますと、前後50年の差を考えなければなりません。紀元前120年ころから紀元後70年ごろです。
こんなに年月に開きが有るようでは、歴史になりません。少なくとも、紀元前660年でないことは確かですが、初代天皇がこのようにはっきりしないようでは、その後の天皇も確かでなくなります。
そこで、外国の文献を使って算出することにします。

朝日新聞社が発行した『邪馬台国』という本の155ページに、次の文章があります。

崇神天皇は、いつ頃の天皇か   前回の続き  P78

私はもう少し、時代が遡るのではないかと考えています。西暦200年頃の天皇であると。
崇神天皇の御世に疫病が大流行して、国民の半分が死んだと言う記述が古事記と日本書紀に書かれています。
古事記の原文は「この天皇の御世に、疫病起こりて、人民死にて尽きむとしき」の短い文章です。古事記は漢字ばかりで書かれていますから、元の漢字の文章は、「此天皇之御世疫病多起人民死為尽」のわずか15文字です。これだけの情報ですが、天皇にとっては大変なことであったことが、この後の記述から想像できます。
人民が死に尽きるほどですから、毒物や細菌では起こりえません。やはり、スペイン風邪のようなものであったと考えるしかありません。
日本の記録はこれだけですが、189年に漢の元号が三回も変わっています。反逆・革命が起きても三回も変わることはないでしょう。188年から189年にかけてインフルエンザのような伝染病が発生して、日本に伝染したことになります。
こんな時代に中国と交流がないというのが、現在の日本の歴史学界の常識ですが、私は頻繁に交流があったと思っています。中国人とユダヤ人が、紀元前200年頃から日本に来ており、この頃にはな火国人が瀬戸内海全域を占領していたのではないかとかんがえています。そのときの本拠地は吉備ではなかったかと考えます。

崇神天皇は、いつ頃の天皇か     P77

 まず、歴史の専門家の説を記します。理由は省略しますが、貝田禎造氏の説では崇神天皇の年代は315~332年。末松保和の計算では崇神天皇は318年没。笠井倭人氏は崇神天皇元年を301年辛酉の年としています。
少し学門的に迫ったものとして、考古学的な立場から研究をした斎藤忠は、崇神天皇の陵の年代を考古学的に研究して、四世紀後半に作られたものと推定しています。
井上光貞氏の説は時代がもう少し遡ります。代位年代のほぼ確実な応神天皇(370~390)から世代を逆算してみると、崇神は270~290年ごろだろう推算されています。また『古事記』にみえる崩年干支でみると、崇神天皇は戌寅年で、先に記した年代に近い戌寅に近い戌寅を探すと、258年あるいは318という年代が得られます。
 ほとんど、三世紀から四世紀としていることが判ります。

神武天皇は何時ごろの人でしょう    P76

その前は、60年の21倍の1260年遡った辛酉の年を初代神武天皇の即位という大改革の年があったということにしました。大改革は1260年に一度巡ってくるという説です。
この決定をしたときは、天皇は偉大な方であることにしたかったのでしょう。また、日本の歴史が古いということを世界にしめす必要があったのだと思われます。その後、これが基準となり、2月11日の紀元節も決められたようですし、昭和15年は、紀元前660年から数えると2600年目に当たるために、皇紀2600年が盛大に祝われたようです。
紀元前660ねんはあまりにも古すぎるので誰も信用する人はありませんが、ではいつ頃の人かとなりますと、明快に書いた書物にはお目にかかりません。判らないからだと思います。
わたしは二つの方法で、解明する気になっています。その一つは、先ず崇神天皇がいつ頃人かを解明しその年から九代遡ると凡そその時代が判るであろうという考え方です。
もう一つは、神武天皇の二番目の兄の稲氷命の生れを見つけて、ほぼ同じ頃であろうと推察することです。

神武天皇は何時ごろの人でしょう    P75

 最後に、神武天皇は何時ごろの人かを書く事によって、神武天皇が実在した人であり、即位した日が西暦元年1月1日であつたことを知っていただこうと思っています。
神武天皇は、紀元前660年に柏原宮で即位したとされています。その根拠は日本書紀に、「辛酉年春正月庚辰朔」とありますから、辛酉年の1月1日となります。問題はいつの辛酉か判りません。推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年は辛酉年です。辛酉年は60年に一度巡ってきますから、600年前の西歴一年でもいいのですが、そのようにはなりませんでした。
何故かといいますと、明治時代の東洋史学者那珂通世が辛酉革命説を中国の資料から取り入れたようです。辛酉革命説とは、辛酉の年には、天命により、支配者の交替などの大改革があるという説です。
 どの様な計算かわかりませんが、その年が推古天皇の西暦601年であるといいます。
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